あと3年で、浦賀奉行所が設置されてから300年。
折しもオリンピック開催とかさなる2020年は、浦賀にとっても記念すべき年となります。
そこで今回は海、歴史、浦賀ドックと見どころいっぱいの浦賀で行われた
「第24回浦賀コミュニティーセンター分館特別展示会 浦賀奉行所の謎」に行ってきました。
どうして、下田にあった船番所が浦賀に移ったのか、なぜ川間に奉行所ができたのか、
などが歴史の資料と共に展示されていました。
浦賀は海と共に歩んできた街です。
浦賀ドックができるほど自然の港としても最適で、江戸時代には、
近海で獲れたイワシで作る肥料「干鰯(ほしか)」問屋として全国に出荷するほど盛んな土地でした。
船での流通が活発になるにつれ、今まで下田番所で担ってきた船の積み荷の検査が難しくなってきたことから、
8代将軍・徳川吉宗が江戸に入ってくる積み荷を把握するために浦賀に船番所を設置することにしたのです。
そして、船番所ができれば、やはりそこで奉行所も必要となってくるというわけで、
浦賀奉行所が設置されることになりました。
しかし、ここで、問題が…。
奉行所は、たくさんの人が働くことになる仕事場で、取り調べをする場所や、
その人達が住む場所の確保もあり、と大きな土地が必要となってきます。
その場所をどうするか、というのが浦賀に住む人々の間で、大問題となりました。
今まで、住んでいた土地を代替えとはいえ、手放すことになるので当然と言えば当然ですよね。
さて、地図を見るとわかるように浦賀は、大きく浦賀港を挟んで、東と西に分かれています。
最初は、東浦賀と呼ばれる側に浦賀奉行所が設置される予定となっていました。
しかし、立地的にすぐ山が迫っており、居住地としての平地が少なく、
干鰯問屋も多い東浦賀の人々は、死活問題ととらえ、反対運動を始めます。
資料を読むと、大山まで祈願で護摩をたきにまでいったようです。
猛反対にあった計画を担当していた代官は、やむなく西浦賀に奉行所を設置することに変更。
しかし、当然ながらここでも西浦賀の人々から反対され、ついにはその任を解かれるまでの事態に発展しました。
今まで、士農工商で、武士が出した決定事項ならやむなくのんでいたのが一般市民、と思っていたのですが、
無理強いせず、変更しているあたり、意外と公平だったのかな、とも思いました。
結果的に、住民パワーで代官を更迭したわけです。
計画を練り直し、ようやく西浦賀にある川間に奉行所が設置することが決まりました。
展示会にはそんな資料の他、奉行所の模型などもあり、勉強になりました。
この展示会の他、「奉行所まつり」もなどもあり、
これから3年、ますます熱くなりそうな浦賀にぜひ、行ってみてくださいね。